上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

今までの人生で自分が完璧だと思ったことは、一度もなかった。


いつも心のどこかで、自分を卑下し続ける別の自分が存在していた。

知識もなければ特技もない、面白みにも欠けるし、何の取柄もない。


そんな自分が、今、生かされている理由が見つけられなかったし

存在するに値しない自分を感じたときは、心から悲しみにくれた。


自分がいてもいなくても、何も変わらない。

現実は、何ひとつ変わることはない・・・。


まさに、その通りで

人それぞれが、自分の世界を、観たいように観ているだけであり

自分の存在が消滅すれば、自分だけがその場からいなくなるだけで

今まで観ていた世界はそのまま、何も変わることなく存続しつづける。


(実際は、目に見える形の消滅はあっても、魂の消滅はない。)


四方八方囲まれた鏡に、今まで映っていた自分が消えても

鏡自体はそのままあり続け、また、ほかの誰かを映し出すだけである。


鏡の一面に映った、目の前の緑に目を向けてみる。

そこで見る世界・・・目に映る鮮やかな草花の色。

そこに美しく舞う蝶や、蜜を目掛けて飛んでくる蜂たち。

そよ風に揺らぐ木々と、鳥のうた声。


目の前に可憐に咲いている花々や、そこにやって来る小さな命が

完璧な姿であることに、ある時、ふと気付かされたことがあった。


草花や小さな生きものたちが、そこに存在していることが完璧だった。

それ以上でもそれ以下でもなく、存在自体が完璧だった。


その中で、花びら1枚、羽1枚にいたるまで、そのものを象る形や色でさえ

すべてのすべてが完璧で、埋め尽くされていた。


そして、この時はじめて

この世界で、自分が生かされていることの意味を知った。


自分の存在そのものが、すでに完璧な状態であり

自分が自分であることの中に、存在意義があった。


自分は、自分であり

形として、なにをどれだけ示せるのかはたいした問題ではなく

自分がいつでも、完璧な状態であったことを思い出すことにこそ

大きな意味があったのだ。


自分の存在が、完璧であることを、素直に認めることが何より大切であり

そのもとにある思いが、これからの自分を変えていくことになる。


自分の完璧さを思い出すことが、自分の光となり、力となっていく。

自分が輝けば、光を追い求める必要はなくなる。


自分の中に、輝く光そのものが存在しているのだから・・・・。




flower shining...ランキングに参加しています。ご協力頂ける方は、1日1回、下のボタン2つとも、ポチッとお願いします。

FC2Blog Ranking

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ


  emoji1 お知らせ
 ブログに興味をお持ちの方は、是非、下記のコメント欄よりご連絡下さい。

 お待ちしております。。。
スポンサーサイト

この世界から、天国を想像してみる。


100%思いが叶うところ。

悲しみも苦しみもないところ。

100%の幸せが満ち満ちているところ。


もし本当に、100%自分の思いが叶い、悲しみも苦しみもなく

目の前に存在するあらゆるものが、100%の幸福に包まれていたら

そこに「幸せ」を見つけることはできない。


なぜなら、100%の幸せが

当然の世界であり、当たり前のことであるなら

そこでわざわざ「幸せ」を、実感する必要がないからだ。


100%の幸せが、当たり前のものであるなら

この世の「幸せ」の概念は、意味を失う。

天国が幸せそのものなら、「幸せ」という言葉も存在しない。


「幸せ」が当たり前で、「幸せ」しか存在しないなら

「幸せ」を語ることは、無意味なこととなる。

この世で「幸福論」を語っているうちは、天国は程遠い。


この世界から、天国を感じてみる。


心の思うままの世界。

自由しか存在しない世界。

終わりのない・・・・果てしなく続く、無限の世界。


この世と真逆の世界に、天国は今も存在している。




flower shining...ランキングに参加しています。ご協力頂ける方は、1日1回、下のボタン2つとも、ポチッとお願いします。

FC2Blog Ranking

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ


  emoji1 お知らせ
 ブログに興味をお持ちの方は、是非、下記のコメント欄よりご連絡下さい。

 お待ちしております。。。

瞳に映るすべてのものは、大いなる存在からの贈り物。

その贈り物を、怖れに使うか、喜びに使うかは

一人一人の選択に任される。


瞳に映るすべてのものは、喜びを現すために生み出されたもの。

その喜びの存在をどのように扱うか、大いなる存在は一人一人に託された。

扱い方は自由であるが、その責任は自らが負わなければならない。


自分が与えたものが、自分が受け取る唯一のものである。

(それは、今世だけのものとは限らない・・・)


怖れ、そのものに意味はなく

怖れを、悪の道具として利用する思考をもつことが問題となる。

どちらにしても、自分がしたことが自分に戻る。


目の前のすべてのものは、喜びをこの地に現すための贈り物である。

すべてが、喜びの波動で包まれている。

今、この瞬間も、喜びで溢れている。




flower shining...ランキングに参加しています。ご協力頂ける方は、1日1回、下のボタン2つとも、ポチッとお願いします。

FC2Blog Ranking

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ


  emoji1 お知らせ
 ブログに興味をお持ちの方は、是非、下記のコメント欄よりご連絡下さい。

 お待ちしております。。。

人は、自分の持つ基準を確固たる基点と信じ

自分流に組み立てた世界観の中で

他人や目の前の状況や社会を判断している。


自分とまったく同じ容姿の人間が、どこを探してもいないように

自分とまったく同じ考えを持つ人間は、どこを探してもいないはずである。


ならば、本来、「人と違うのが当たり前」であるはずなのに

その自由奔放な思考を封印するため

子供の頃から自動的に、教育と言う集団生活の箱庭に押し込められ

飼い慣らされ、自由な発想の芽を、根こそぎ次々と摘み取られてきた。


集団生活の中で、人と違うことは許されず

横並びのドングリの背比べが、正しいこととされ

自分勝手をしてはならないと、幼少時から教え込まれた。


常に集団で、同じ時間を共有し、同じ行動をし、同じものを食べ

これが正しい、これはこういうものだと、知らず知らずに洗脳されていく。

まるで家畜のように・・・。


自由な思考を封印した、箱庭の中で培われた常識は

箱の中で操作された、箱庭の中でしか通用しない、代物である。


自分の中にある常識や基準が、どこからきているものなのか

考えたことはあるだろうか。


常識は、持って生まれたものではない。

後付で、植え付けられたものに他ならない・・・。


人と違うのが当たり前なのに、時や所で変わる、絶対的基準がない

曖昧で取り留めのない「常識」という言葉に

皆々揃って、見事に嵌まってしまった。


これからは自分の意思で、常識を外していくことである。


自分の思いを頭であれこれ判断するその前に

想いを即座に行動することが、最大のキーポイントとなる。


頭でああだこうだとやっていては、埒が明かない。

ここは、直感がものを言う。

頭でものを言わせる隙を作らない。


「直感」は、ただ「ひとつ」。

「頭」は、どっちかの「選択」。


思いを即、行動に結べるのは、「直感」しかない。




flower shining...ランキングに参加しています。ご協力頂ける方は、1日1回、下のボタン2つとも、ポチッとお願いします。

FC2Blog Ranking

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ


  emoji1 お知らせ
 ブログに興味をお持ちの方は、是非、下記のコメント欄よりご連絡下さい。

 お待ちしております。。。

| Home |


 BLOG TOP 


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。